※書籍版は縦書きです。
うっとうしい鳩どもにマジソンバッグを振りかざす。追っぱらえたのは半分。緩くなってきたイヤホンを親指で耳の穴へ押しこみ、それからガムを噛んだ。
万が一に備えた松本の読みは正しかったが、その万が一の起こりやすい状況を作りだした松本は正しくなかった。そうなることを予想できていながら、引き留めきれなかったおれももちろん正しくない。
『道路交通情報センターの春日さん、お願いします』
学生服を探し、見つけては顔を確認した。ひとり確認し終わるたびにひとつ、ため息が出た──また来る羽目になるなんて考えてもなかった善光寺。おれは今、その山門前にひとりでいた。
わからないことが山ほどあった。おれたちがやばい状況だと教えてきた歯のない茶色リーゼントのこと。そいつがおれの名前まで知っていたこと。そして極めつきはあの騒ぎ。
『お天気です。今日は本当に暖かい一日でしたね。吉岡さん、お願いします』
あの店におれたちがいるのを教師どもはどうして知ったのか。あの短い時間でなぜそれをできたのか。おれたちみたいなガキを捕まえにやってくるのは大抵の場合、おまわりか補導員だ。まれに教師どもが見まわってくるパターンもあるが、となり街までそれをしてくるなんて話は聞いたことがない。
もっとも、おれたちは大金をかっぱらって逃げてきているわけだから、ただサボって遊びまわってるガキどもとはわけがちがう。そういう意味じゃ教師どもが探しまわっているのもわかる。ふに落ちないのは『掃いて捨てるほどある長野市内のゲームセンターで遊んでいる、名前も顔もわからない学生服のふたり組』が、どうしておれたち=『となり街の小学校からやってきた中学生のふりをしている小学生』だとバレたのか、だ。
『十月最後の週末はとてもいいお天気に恵まれそうです。大陸からの移動性高気圧が日本列島上空を通過──』
考えられるのは、お尋ね者の触れ書き=指名手配みたいなもの。紙を送る電話──たしかファクシミリとかいう機械で市内や長野、小布施、中野といった街の盛り場に、おれたちの顔写真がばら撒かれていたりすれば、さっきみたいな場合の説明はつく。昨日追いかけまわしてきたおまわりも、それでなんとなくつじつまが合ってくる。
『予想最高気温は長野市と上田市で十八度。松本市と飯田市では──』
でも、だ。普通に考えて、たかが家出小学生を探すためにそんなものがばら撒かれるだろうか。大金をかっぱらったとはいえ、おれも松本もただのガキにすぎない。映画のなかじゃハーロックやエメラルダスが賞金首になっていたが、おれたちはそこまでの大物じゃないし、強盗も人殺しも海賊みたいな真似もしていない。実際の世界でもテレビでニュースになるぐらいのことをやらなきゃ、指名手配なんてまずされないだろう。
はっきりしているのは、ゴマ塩がなにかしなければあんなことにはならなかったということ。からくりがどうであれ、そこのところはまちがいない。
『続きまして、SBCラジオコンクールのお知らせです』
服の上からコールボタンを押してみる=内ポケットへねじこんだトランシーバー。反応はなし。呼びだし音は電波の届く範囲に相手の無線機がないと鳴らない。そういう仕組みは海のある街で暮らしていた頃、機械や爆弾なんかを簡単に作っちまう友だちから教わって知っていた。
『午後四時をお知らせします』
腕時計のデジタル表示を読む──一五五九。一番右に小さく、四八──ほんの少し遅れていた。おれたちが乗りこむ予定だった列車はとっくの昔に発車している。あのゲームセンターを飛びだして一時間半、ここ善光寺の山門前に着いてからも一時間が過ぎていた。
「なにやってんだ、いったい⋯⋯」
どう考えても遅すぎた。逃げるのに手間取っている、道に迷っているといったことが、そろそろ理由にならなくなってきている。昨夜あれだけ気にしていた『万が一のときの集合場所』を忘れちまうとも思えない。あいつが目でやる合図は本当にあてにならなかった。
『イントロが聞こえている曲はペンネーム手羽先最高さんほか、たくさんのリクエストをいただいてます。通算でもう七枚めのシングルになるんですね。はい、それでは今月十六日にリリースされた話題の新曲──』
なにを考えているのかわからない目、というやつが二十個以上こっちを見あげていた。態度も昨日よりなれなれしい気がする。おれは少しずつ距離を詰めてきている鳩どもをさっきと同じやり方で追っぱらい、逃げきれなかったかもしれない相棒のことを思った。
「運がいいんじゃなかったのかよ⋯⋯」
ヘラヘラしてなにをいってるのかわからない歌が邪魔だった。耳からイヤホンを引っこ抜き、おれは善光寺下駅に向かって歩きだした。
仲見世=みやげもの屋の通り。そこに並んでいる店のひとつが、焼けた小麦粉のにおいと夏の雲みたいな蒸気を撒き散らしていた。おやきのそれだ。長野のやつらが口を揃えてうまいというそいつも、おれにはどうってことのない味だった。そばもりんごも野沢菜も蜂の子も、長野名物といわれているものでうまいと思えたものはひとつもない。おれはもう一度コールボタンを押した──呼びだし音が鳴った。
「⋯⋯い⋯⋯ら」
誰かとつながった。が、雑音がひどい。松本の声なのかどうかもわからなかった。混線ということも考えられる。おれは学生服の内側に顔と右手を突っこみ、親指でトークボタンを引っぱたいた。
「誰だ!?」
「ボクだよ⋯⋯」
ざらついた声。だが、あいつにまちがいない。
「どこにいる? ひとりか?」
「⋯⋯善光寺の駅⋯⋯そっち⋯⋯歩いてる。沢⋯⋯」
「わかった。今そっちへ行く」
こっちで聞くのと同じぐらい、向こうでもおれの声は聞きづらいはず。松本は意味を理解できただろうか。
マジソンバッグを抱えて仲見世を抜ける。広い通りを左へ。まっすぐ行けば善光寺下駅。走るスピードを落とし、首から下が黒いやつの顔を片っぱしからチェックする──いた。見るからにうそっぽい中学生が『書類・写真一枚から複写できます』と書かれた、まわる看板の前を歩いている。
「おい!」
駆けよりながら呼びかけた──無視。聞こえていないのか。いや、それはない。いんちき中学生の後ろにいる本物の中学生どもがおれの声に振り返っている。今度は名前をつけてもう一度──相変わらずの無反応。足取りもやたらとちんたらしている。どうしたのか。
松本ふうの中学生までは車道へ止められている車の数であと三台。足音で気づいたのか、一台半のところでやっとその顔が前を向いた──正真正銘、松本亨。しょぼくれている、というよりは浮かない表情。かろうじて動いていたその足も止まった。せっかく逃げてこれたのに、なにをそんなに落ちこんでいるのか。
「捕まっちまったのかと思ったぞ、おい」
松本はなにもいわない。そして見事に手ぶら──いや、背ぶらだった。
「⋯⋯ナップサックはどうした?」
猫背気味の背中に手を置いて聞く。聞いている途中でだいたいのところは思い浮かんだ。落ちこんでいるのもそのせいだろう。おれたちはエネルギーの半分を失っちまった。
「ボクはだめなやつだ⋯⋯」
「まあ、そういうな。うまく逃げてこれたんだし、そこは儲けたって考えようぜ」
「ちがうんだよ⋯⋯」
「心配いらねえよ。金ならまだここに二百万弱ある。ほら、こういうのなんていったけか⋯⋯不幸中の──」
「大不幸⋯⋯」
「おい、冗談いってる場合じゃないだろう」
くちびるを噛み、目のふちに涙を盛りあげてくる松本──妙な気分。心になぜか緊張が走る。
「沢村、ごめん!」
「わかったから、もうい──」
謝られた一秒後に舌を噛んだ。目からは火花。喉へ飛びこんでいったペンギンガムが咳に押し戻され、口から勢いよく転げ出た。
──中略──
なにかにぶつかった──車道にまで転がっていくりんごたち。怒鳴り声がまた聞こえた。遠くでサイレンも鳴っていた。知ったことじゃない。気にしている暇もない。なにがどうなろうと、かまっちゃいられない。
走った。ひたすら走り続けた。肺が痛かった。横っ腹も痛かった。もつれる足。両腕をばたばた振って立てなおした──肉にされるのがいやで逃げだしてきたニワトリの気分。おかしかった。笑いがこみあげてきた。だから笑った。げらげら笑った。
どこだかわからない歩道の上でこけた。縁石に顎をぶつけた──叫びたくなるほどの痛み。それでも笑うのをやめられなかった。ぶっ壊れたおれの脳みそ。すべての神経が笑うためだけに使われている。
〈あひゃひゃひゃひゃ〉
負けじと笑う心のなかの化けもの──口もなにもないくせに。おれは道路に額をこすりつけて笑った。吐きそうになりながら笑い続けた。馬鹿みたいに。あほみたいに。きちがいみたいに──いや、みたいじゃない。おれはとっくの昔からきちがいだった。