※書籍版は縦書きです。
石けんで顔と手足を洗い、頭も洗う。
「ほんとに人来ない?」
「来ねえよ。心配するな」
夜中に工事をやるのは道路だけだと聞いた覚えがある。道路じゃないここはつまり、昼間にそいつをやるということだ。
「ここってトイレみたいだけど、使っても平気かな」
「平気は平気だろうけど、灯りはつけるなよ」
「じゃあ、いいや」
いもしないものを気にしての諦め。追跡を逃れるために暗い場所へ身を隠すときなんかはどうするつもりなのか。先が思いやられる。
「便所に窓あるか?」
ちょっと待って──扉を素早く開け閉めする音が聞こえた。
「磨りガラスのちっちゃいのがひとつだけ」
「そしたら服かなんか引っかけて窓を隠せ」
「ていうか、電気のスイッチなーい。ねえ、ちょっと怜二見てよ」
頭を泡まみれにしている状態でそれはできない。
「内外、両方見てみろ」
「見た。なーい」
「もっとちゃんと探せよ」
真奈美の気配が入口扉のほうへと移動していく。
「ここってもしかして、電気ないんじゃない?」
どうしてそう思うのかは想像がついた。部屋全体を照らす灯りのスイッチが、普通ならありそうな場所にないんだろう。
「ナップサックにさっきの懐中電灯がある。それを使え」
「そっかそっか」
ベニヤの床をこする靴底の音に続いて、ナイロンのこすれる音が聞こえた。
「レンズは下へ向けろよ」
「なんで?」
「光が窓の外に漏れたらまずいだろう。高さで照らす範囲を調整しろ」
「なるほど。さすが何日も家出してるだけあるね」
蛇口をひねって水を止める。顔や頭を拭くものがなにもないことに今さら気づいた。
──中略──
「こいつを敷けば布団代わりになるだろ」
奥から束で持ってきた青いシートをベニヤの床へ置き、そのうちの何枚かでふたり分の寝床を作る。使わなかったシートの上にはおれたちのジャンバーがきれいにたたまれて置かれた。
「なんか寝ちゃうのもったいなくない?」
「明日は一日移動だ。寝不足だとつらいぞ」
真奈美がどこからか見つけてきたやかん──ストーブにかけられたそれがカンカンと音を立てはじめる。
「わたしも上、脱いじゃおうかな。部屋のなかあったかいし」
胸のすぐ下までめくりあげられるシャツ──ちょっと待て。おれは腰巻きにしていた横縞シャツの結び目を解き、そいつをただちに頭へかぶった。
「なんで脱いでんだよ!」
立ちあがっていった。つられてなのか、真奈美も立ちあがる。
「怜二はなんで着てるの?」
シャツ=聖香色のそれで隠された胸に目玉が貼りつきそうになる。
「服を着てくれ。変な気分になる」
こっちの頼みを無視して体をぺったりやってくる真奈美。素肌の腕は二本ともおれの背中にまわっている。体を離せばシャツが自動的に落っこちる仕組みだ。
「変な気分ってどんな気分?」
真奈美がおれに体を押しつけたまま、股ぐらの富士山に触れてくる。
「さっき決めただろう」
「なにを?」
「記念日だよ。こういうのは全部引っくるめてしあさってだ」
「いちゃつくぐらい、いいじゃない」
シャツが引力に従った。こぢんまりした顔からへその下までつながった裸が登場する。生まれてはじめて目にする好きな女のそれに、おれの目玉は釘づけになった。
「見られちゃった」
「見せてるんだろ」
「うん。怜二にはずっと裸見せたいって思ってたの、実は」
ずっとがいつからをいってるのかわからないが、そういうことなら遠慮はいらない。穴が空くほど裸を見つめてやった。
「もっとちゃんと見せろよ」
しあさっての約束はとっくにどこかへふっ飛んでいる。
「同い年の男子にじっと見られるのって恥ずかしいね」
光──なだらかなふたつのふくらみの間で、オレンジがかった銀色が怒りと憎しみに満ちた輝きを跳ね返してきていた。
「怜二も脱ごうよ」
横縞シャツを脱ぎ捨て、M字型の銀色を睨み返す──垂れ目の気合対、ろくでなしのでたらめ。
──どうあっても武田に勝ちめはない。悪いがもらっていくぞ。
真奈美はおれに愛されたがっている。だからここにいる。白黒はとっくについていた──勝負するまでもない勝負。胸の銀には背中のベンチへ引っこんでもらい、空いた場所へどす黒い模様の浮いた皮膚を押しつける。弾力の先が痣に触れた──脳みそに電流。熱い吐息とセットになったささやきがおれの鼓膜を震わせる。
「触って」
半歩後ろへ下がり、左手でその弾力を確かめる──やわらかかった。
「もっと」
弾力検査に右手も加える。両手で軽く揉んでもやる。
「キスして」
ミミズのそれをする。舌と手を同時に動かすのはちっとも難しいことじゃなかった。
──中略──
黄色い鳥がくちばしを開けてなにかいっている──たぶん、寝入り端の夢。見覚えのあるオスのカナリアは父さんがいた頃に飼っていたピーコだった。いろいろあってちょっとしか一緒にいられなかったが、こいつのことはよく覚えている。というより忘れようがなかった。オスなのにメスみたいな名前をつけちまったことは今でも悪かったと思っている。
起きてる?──ミリ単位の意識で捕まえた、この世で一番好きな人間の声。目のまわりに力をこめ、普段の何倍も重さがある皮膚のシャッターを開ける。念力が通じていた。
「昔の話してもいい?」
朝までお預けだと思っていた笑顔に頷く。すぐにはじまる昔話。どれぐらい前のそれなのかは眠けのせいで聞き落とした。
「あれって三日めぐらいだったのかな」
なんの三日めかわからなかった。が、そのまま聞く。話も勉強も最初をつまずくとどんどん置いていかれる。
「眠そうだね」
ほとんどの言葉が子守歌に化けていた。
「そんなことない。で、どうした」
まぶたにつっかえ棒をしたい気分をぶっ殺して恋人の話に耳を傾ける。脳みそにも密かに気合を送った。
「その転校生、絶対わたしに気があるんだって思ってた」
小雪舞う放課後、昇降口での立ち話、つまようじとコーヒー牛乳。そして転校生。話がまるでつながってこない。いつものぶっ飛び話か。
「ずっとしつこくされてたんだよ、わたし。毎日コーヒー牛乳あげるからつきあってくれって」
話の流れでいくと武田のことか。だけどあいつは転校生じゃない。
「誰の話してるんだ?」
「え?」
「いや、だから武田じゃないのはわかるんだけど⋯⋯」
「やっぱり聞いてない」
「悪い。そこだけ抜けた」
真奈美は目がつまようじみたいに細い子だといった。
「ああ、ヘンタイ野郎か⋯⋯でもあいつ転校生じゃないだろ。捕虜がガキの頃から近所同士だっていってたぞ」
「ほんと人の話聞いてない。もういいからそのまま聞いてて」
頷くしかなかった。
「たぶん、見てて気分悪かったんだろうね。わたしの目の前でその子をやっつけちゃったの。あっという間よ」
小雪舞う放課後の昇降口でヘンタイ野郎をぶちのめした転校生はおれだ。
「わたし三秒で恋に落ちちゃった」
「え?」
「でもその後がサイテー。告白される気満々でいたわたしの横をすたすた歩いてどっか行っちゃったんだよ。超かちんときちゃった」
あの場に誰がいたかなんて覚えちゃいない。というより、誰の顔も名前もわかっちゃいない頃の話だ。そんなところでかちんとこられても困る。
「あのときは──」
「聞いて。その後の後なんかもう超超超サイテー。なんとその転校生はわたしのお友だちとつきあっちゃいました! ちゃんちゃん!」
知らなかったし、知りようもない話。仮に今の話を誰かにされていたとしても聖香とはつきあっていた⋯⋯はず。真奈美はいってもしかたのないことをいっていた。
「というわけで半年以上も怜二を愛していたのでした」
武田と彼氏彼女になっておきながら⋯⋯ずいぶんと器用な心だ。
「つじつま合わないとか思ってるでしょ」
人の心をガシガシ読んでくる女──頷いた。
「正直いうとね、半分は当てつけ。でも全然意味なかった。武田くんには悪いことしちゃったって今は思ってるよ」
白状と軽い反省。
「けどもう昔の話。そんなの早く忘れたい」
そして開きなおり。それに昔というほどの話でもない。この分じゃ先月のことでも昔話にされそうだ。
「おれもさっき昔を思いだしてた」
「どうせ聖ちゃんのことでしょ」
「そんな最近じゃない。もっとずっと前のことだ」
真奈美に黄色い鳥を飼っていたと話した。
「ひよこ?」
「カナリアだ。ピーコって名前をつけてた。きれいな鳴き声がなんとなく真奈美の声に似てる」
笑顔が弾ける。おれはこの先こいつを見るためだけに、真奈美の喜ぶセリフを口走りそうな気がした。
「怜二大好き。カナリアも飼ってたから好き。わたしのはカリーナっていうの。お爺ちゃんになって死んじゃったけど」
ピーコも死んだ。ただ、爺さんになってそうなったわけじゃない。
「カナリアって毒ガスに弱いの知ってる?」
「初耳だ」
「石炭あるじゃない」
「石炭って⋯⋯蒸気機関車を走らせるときのあれか」
真奈美が顔を横にしたまま頷く。
「山でそれを掘るらしいんだけど、たまに毒ガスも一緒に出てきちゃうんだって」
「変なこと知ってるな」
「うん、今そこは関係ないの」
余計なことを口にしたみたいだった。
「でね、カナリアってちょっとの毒ガスでも死んじゃうらしくて、石炭掘ってるところの近くにかごへ入れていつも置いとくんだって」
「つまりあれだ⋯⋯毒ガス探知機の代わりってわけか。カナリアからしたらとんでもなく迷惑な話だな」
「かわいそうだよね」
かわいそうなのはあのカナリアも同じだった。
「ピーコは元気にしてるの?」
「カリーナと同じだ。年よりになる前に死んじまったけどな」
いやな記憶=おれに向かって飛んできた静恵の拳。とっさに避けてかわした。悲鳴が聞こえた──左手を骨折した静恵。殴った相手が鉄の玄関扉じゃ当たり前だった。その腹いせに静恵は動くほうの手でピーコを握り潰し、苦しがる顔を見て笑い、最後に自分の左手をぶっ壊した玄関扉へ叩きつけた。
「そっか⋯⋯じゃあ、天国でカリーナと一緒かもね」
あのときにおれが静恵の攻撃を避けていなければ、ピーコは爺さんになるまで生きられたのかもしれない。メスの名前をつけちまったこと以上に悪いことをした。
「似てるな」
「ピーコとカリーナ?」
「いや、石炭と自由」
真奈美が眉のかたちで『どういうこと?』と聞いてくる。
「うまくすればたくさんの石炭を手に入れられるかもしれない。だけどまずくすると毒ガスにやられちまう」
「この旅のことをいってるのね。たしかにそうかも。で、毒ガスってたとえばなに?」
「今のところおまわりだな」
「おっきい人は?」
「あれは猛毒だ」
「じゃあ、佐東先生たち」
「あんなものは排気ガスで充分だ」
ふたりして笑った。おれは少し。真奈美は腹を抱えてけらけらと。
「怜二っておかしいね」
そういう真奈美はいつだってかわいい。文句を口にしているときも、迫ってきているときも、電話をしているときも、こうして笑っているときも。そしておれの下で嬉しがっているときも。
「旅を続けていれば、ほかにももっと強力な毒ガスが吹きだしてくるかもしれない」
「じゃあ、わたしたちにもカナリアが必要ね。ちょっとかわいそうだけど」
「カナリアは真奈美だ」
「いやよ、そんなの。わたし死にたくないもん」
互いのいうカナリアの意味はちょっと食いちがっていたが、まあでも、毒ガス探知機の役を真奈美にやらせるわけにはいかない。
「怜二ってわたしのこと弾避けにしたり、けっこうひどいよね」
おれの彼女はわりと根に持つタイプだった。
「そういう役目は今度からおれがちゃんと引き受ける。だからもう寝ろ」
「最初のは嬉しいけど、終わりのほうは寂しいよ」
「いいから寝ろ。朝までもういくらもない。隊長命令だ」
「りょうか~い」
横になりながらの敬礼に敬礼を返す。真奈美の夢を見るためにその顔をまぶたに焼きつける。目を閉じる。例によって足もとからやってくる眠け。意識はそいつに特急で奪われていった。