※書籍版は縦書きです。
もうやだ。ほんとにもうやだよ。母さんの正しさを信じられなくなっちゃった。気づいてないと思うけど、母さんはぜんぶがうそ。なんでもそれでぬりかためちゃうんだ。
それに母さんはいま、すごくひどい顔してる。人の顔じゃない。ほら、かがみで見てよ、自分の顔。きっとびっくりするから。ぼくはなれてるけどね。ずっと見てきてるから。
ごめんね、母さん。ほんとにごめんね。ぼく、口ごたえしたことないよね。はむかったこともないよね。ただのいちどだって母さんにそんなことしてこなかったよね。でも今日はいうよ。足がびっこになっても、目がつぶれてもね。うん、ころされてもいう。ころされるまでね。
《どうして母さんの気持ちがわからないの》
ぼくはサーカスのくまやライオンじゃないよ、母さん。そんなものでたたかれなくてもわかるよ。
《お腹を痛めてお前を産んで、ここまで育ててきたのに》
ありがとう。ほんとにかんしゃしてるよ。でも母さんにけとばされたおなかもすごくいたいよ。
《母さんだって好きでこんな暮らししてるわけじゃない》
そうだよね。だけどぼくだって好きで手からやきにくのにおいをさせてるわけじゃないよ。
《母さんはお前の父さんのせいでぼろぼろだ》
それはちがうよ。母さんはぼろぼろじゃないよ。ぼろぼろなのはぼくだよ。ぼくの心だよ。ねえ、母さん。ちゃんとぼくを見てよ、母さん、母さん。
お前なんか産むんじゃなかった。
──ほら、またうそいったよ、母さん。
§
鎖がじゃらじゃら鳴る音で目が覚めた。大量の空気を鼻から吸いこみ、吐きだす。頭のなかに残っていたろくでもない夢も一緒にそうした。
鎖の音はまだ続いていた。動きに落ち着きがないハナコ。おそらくハツのせいだろう。あんなもの、戻ってこなきゃいいのに。
体を起こした。ひとつしかない小窓に目をやる──闇が映っているだけだった。そのまま目玉だけを動かし、床へ置いてある目覚まし時計で時間を確認した。黄緑色に光る針が十の少し手前で重なっている。
「妙だな」
伊勢乃へ出かけていったハツがその日のうちに戻ってきたことなど、今までに一度だってなかったはず。たまたまなのか──いやな予感が眠けを吹き飛ばしていく。
虫たちが一斉に鳴きやむ=ニュースを読みあげるアナウンサーの声だけになったトタン小屋。ちぎれっこない鎖をぶっちぎろうとしている音とハナコの唸り声がそいつに重なり、さらに砂利を噛むタイヤの音も上塗りされると、唸り声は吠え声に変わった。
はずれてほしいときに限って当たるおれの予感。トタン小屋に向かってまっすぐ近づいてくるふたり分の足音が、せっかく温まった体を一気に冷やしていく。死ぬのは大嫌いだったが、今なら即死してもいいと思った。
「今日は天中殺だな⋯⋯」
何年か前に流行った言葉を口にする。おれは全身の筋肉に力をこめた。
殴るか蹴るかして開けられた扉。人が入ってくる前になにかが飛んできた。せんべい布団をとっさにかぶる。右肘にそいつが当たった──まともに食らっていたらやばい威力。ベニヤの床で金属バットが軽やかな音を立てた。
「てんめえ⋯⋯」
靴のまま小屋へあがりこんでくる般若の顔をした女=静恵の左膝があがり、踵がおれの右肩へまっすぐ飛んできた。衝撃で体がねじれる──まだ耐えられる痛み。誰かのおしゃべりを流していたラジオは裏底の硬いサンダルの踵でこっぱみじんにされた。
「くらしあげんきゃ、わかねか!」
千葉にいたとき、静恵は普通の言葉づかいをしていた。自分の生まれ故郷=長野へ戻ってきてからはハツと同じ言葉をしゃべるようになった。
「こんがきゃは、なめくさりやがって!」
意味のわからないなんくせ。静恵はおれの髪を引っつかんで布団から引きずりだそうとした。抵抗しようと思えばできなくもなかったが、それをして結果が変わったためしはない。おれは自分から布団を出た。一緒に引っついてきたせんべい布団は静恵が蹴るようにして剥がした。
「こっちは忙しいっつうに、まぁず」
前のめりになっているおれの体を、今度はデブ=出脇慎作が引きずる。派手に蹴飛ばされるみかん箱。闇とほとんど見分けがつかなくなっているベニヤ板だけが目に映った。背中と尻に痛みが走る──金属バット。再婚同士の見事な連係プレー。慣れた痛みだったが、一瞬だけ呼吸が止まった。
うじ虫のガキはしょせん、うじ虫──後頭部に吐きつけられてきた文句。デブがおれを名前で呼ぶことはない。父さんともども、うじ虫としかいわなかった。
髪を引っぱりまわされた。扉の前で体をベニヤの床へ叩きつけられた──脳みその芯にしびれが走る。デブの力はプロレスラー並みに強い。
「はあ、出れ」
小屋から引きずりだされるときに、どこかの髪の毛がまとめて抜けた。まだ抜けていない髪をすぐにつかまれた。くの字のまま歩かされるおれ。足を前へ出していくたびに土の水分が靴下にしみてきた。
「おめのせいでばあやんに、ええかんものいわれたわ!」
こいつらはなんでもおれのせいにした。ハツはなんでもこいつらにちくった。おれをいたぶることがなによりも生きがいのふたりにとって、ハツからの電話はプレーボールを宣言する審判の声と同じ意味だった。
じゃが芋とは関係のない穴掘りが招いたろくでもない夜。牙を剥きだしにしたハナコが鎖をギリギリいわせて吠えている。
「うっせんだ、この犬っころは!」
見える範囲の一番隅っこで金属バットが揺れた。
「やめろ!」
容赦ないバッティング。白い横っ腹が水枕のような音を立てる。
「
一度だけ短い悲鳴をあげたハナコがまた吠えはじめる。
よせ。静恵は──その女はきちがいだ。なにをどうしたところでおとなしくはならない。もげるほど首をひねり、おれはまっすぐにハナコの両目を見つめた。
「親ぁ向かってなんせった!」
太ももにめりこむ金属バット。歯を食い縛ったぐらいで耐えられる痛みじゃなかった。右足だけで体を支える。
「つるかってじゃね」
ごつい肘が後頭部を小突く。静恵がおれとデブを小走りで追い越していった。髪をつかんでいたでかい手が後ろ襟に移り、くの字の体がさらに押し下げられる。
「へえ、うじ虫」
今度は体をまっすぐにさせられた。気色悪い薄笑いが顔の前へ迫ってくる。
「今日はおめえ、まだ飯ぃ食ってねえずに」
晩飯などいつでも食っていない。そういう代わりにぎょろ目を睨みつけてやる──頭突きが飛んできた。
「今からおごっつぉくれてやらあな」
前にこれをいわれたときは赤ん坊のくそを食わされた。その前は土だった。どっちもうまくはない。南京錠を外す音に続き、鎖を解く音、かんぬきをずらす音、重たい鉄の扉を開ける音が順番に聞こえた。こういうことだけは手際のいいきちがいども。心と体を切り離す準備をはじめる。
「おら、入れ」
きちがいどものうさ晴らし。おれは鼻がひん曲がりそうなにおいの立ちこめている農舎=処刑場の暗闇へ放りこまれた。
──中略──
反動をたっぷり効かせた後ろ向きの頭突き。背中がデブの体に触れるタイミングでそいつを食らわせる──確かな感触。たぶん、鼻を潰した。が、ガキの頭突き一発でぶっ倒せるほどデブはやわくない。動きを止めるには頭か内臓をめった打ちにする必要があった。おれはきちがい女が拾いあげようとしている金属バットを先につかみ、そのまま体当たりをかました──農舎の壁に顔を打ちつけるきちがい女。ただちに百八十度ターン。左手で顔を押さえているデブの膝を走りながらフルスイングする──ジャストミート。はじめて聞く叫びに笑いがこみあげてきた。
「うじ⋯⋯れ、怜二、俺ぁ別におめのことが──」
憎くてやってるんじゃない──たわ言のすべてを聞くつもりはなかった。宙でパーをしている左手をぶん殴り、返しの右打ちで左の太ももをぶっ飛ばしてやる。尻もちを突くデブ=チャンス。
バットを振りあげ、グリップを握りしめる。
「ぶっ殺してやる」
バットを振りあげ、グリップを握りしめる。
「待て⋯⋯ちょ、ちょっと待て」
ぎょろ目が一瞬、右へ動いた。振り返りそうになるのを堪える。決定的なダメージを与えていないデブから目を離すのは危険。後ろへは耳の神経だけを向けた。ふらつきながらこっちに近づいてくる足音で、きちがい女までの距離を測る。三メートル⋯⋯二メートル──
「邪魔だ!」
片手バットで左半回転──空振り。きちがい女はバットの先より向こうにいた。あてにならないおれの耳。そのまま踏みこんで跳び蹴りをする。
「静!」
向きなおる。腰を浮かせちゃいるものの、立つことができないでいるデブ。きちがい女に一秒だけ目をやった。胸を押さえ、夕方、穴の底で運悪くおれに見つかったミミズと同じ動きをしている。
「このきちがいが」
今日こそぶち殺す。この女を地獄へ送る。だが、その前にデブだ。やつさえ始末できちまえば、あとはどうにでもなる──ダッシュ。
「やめれ! 怜二、やめれ!」
きちがい女の叫び──知ったことか。自分たちが不利なときだけまともなふりをするんじゃない。こいつらをこの世から消して、おれはおれの人生を手に入れてやる。
「死ね」
金属バットを振りかぶる。狙いは脳天。振りおろした。背中を丸めたデブが体を左へ倒す。動きを止めずに軌道修正──失敗。腕時計の部品が飛び散っただけだった。ごつい右手が握りのところまで伸びてくる──つかませない。手早くバットを引き、先の部分でぎょろ目を突く──かわされた。今度はがっちりつかまれた。
「こん、くそがきぁ⋯⋯」
デブの顔つきが変わる。次の攻撃に入ろうとした瞬間、足払いをされた──後頭部に痛み。首から下は地面と水平。ここで倒れるのはどうにもまずい。おれの後頭部をぶっ叩いた耕運機のハンドルに手を伸ばした──届かなかった。
「こら、うじ虫!」
起きあがろうと両手を地面に突いたとき、おれの体はデブに馬乗りされた。